蛇神はたくらみ龍神は斬る (4)蛇の目 Ⅰ

カテゴリー/ その他 |投稿者/ カウンセリングルーム「桜」
2018年09月16日

 

蛇の目 (Ⅰ)

 

 何年か前、まあるく茂った庭木の中から蛇が頭だけ出して日光にあたっているのを見た。頭だけしか出ていなので、最初は蛇だと思えなかった。思索する蛙のようで、愛らしくさえ感じた。すぐそばまで顔を近づけてしげしげと見つめているのに、太陽に顔を向けたまま逃げようとしない。身体が隠れているので安心していたのかもしれない。

 

 

 

 ひとは自分を重ねてしかものをみることが出来ない。あの時、私は蛇に自分を重ねてみていた。だから、強烈な印象で記憶に残ったのだ。

 

 

 

 わたしは小さい頃から空想ばかりして楽しむ子どもだった。

 神職との兼業農家で父も母も休む暇なく働いていた。農家の家畜には仕事が与えられるように、子どもも薪を使って風呂炊きや飯炊き、当時飼っていた犬や山羊などの家畜の世話、市場へ出荷するコンニャクや梨の箱詰め作業、祭りに使う御幣作りなど、年齢に応じて様々な仕事を与えられた。とりわけ春の田植えと梨の袋掛けシーズン、秋の稲刈りや梨の収穫シーズン、正月前の大掃除から始まる祭りの準備は家族総出で夜なべしてやるのが恒例だった。夕食や掃除は、そのうち忙しい母に変わって長女が仕切って当番制にし、子どもが順番でするようになった。

 小さい時は家族が揃って畑に行き、お昼に畑の中でお弁当を囲むのが楽しかった。姉達がいれば、一番小さい私は退屈しなかった。遊びがてら、姉の見様見真似で仕事をやった気になっていたに違いない。遊びも手伝いもいつも姉達のうしろを夢中で追いかけていた。

 大きくなるにしたがって姉が幼稚園や学校に通い始めると、よく空想するようになった。山の中の生活が退屈でつまらなく感じ始めたのだ。恐らく一人で両親の手伝いをするのが嫌だったのだろう。両親の声が届かないお宮の山に入って、ひとり空想していたのを思い出す。

 空想するのは、もっぱらテレビで見た海外ドラマやアニメの主人公になりかわって自分が活躍する世界だ。テレビで見る海外ドラマは山の中の生活とはかけ離れていた。このかけ離れた世界に憧れるのも私の思考パターンだった。6歳までに感情の脳でつくった思考パターンは、その後の人生で、同じ絵柄が並ぶ絨毯のように同じパターンで織り込まれていく。

 私の場合は、今いる場所を良いと思えず、遠くに憧れるというパターンだ。

 このパターンがあると、現実の仕事をしっかりとこなすことが出来ず、失敗が多い。やれと言われたことはやるが、手元に集中しないので十分な能力は身に付かない。現実の世界に目標を持たないので中身はスカスカで、いつまでたっても責任がとれるような仕事が出来ない。現実がいい場所と思えないので、いつもここは私がいる所ではないと感じる。面白い、楽しいと感じるハラハラドキドキする感情の刺激ばかり求める。

 空想やテレビや漫画や小説の中で感情が活き活きしている時間だけが生きている気がして、それ以外の現実はつまらなく、生きている気がしないのだ。その為に益々仮想空間の中で刺激を求めるようになる。

 

「生きる」とは、現実と繋がる必要がある。目の前の必要に応じて行動することで現実と太いパイプが繋がっていく。同じ行動を繰り返すことで能力がつき、能力を持つことで人の役に立つ喜びや、目標をクリアし達成する喜びを知る。常に空想の世界にいることを望んでいるということは眠っている(夢の世界にいる)のと同じなのだ。

 自分の中に現実を生きる回路が乏しいことに気づかせてくれたのはフラクタル心理学だった。いつも現実が生き難く感じていたのはこのせいだったのだ。これまでの人生に繰り返し神話や伝説をよみがえらせようとする人物が現れるのが不思議だったが、それは不思議でもなんでもなかった。空想の世界で生きようとする私の思考パターンが現実化していただけなのだ。

 

 空想する思考パターンを持ったまま社会に出て一番困るところは、土台をつくれないことだ。空想の世界では土台づくりなどしなくともヒーローになったところから始めればいい。頭の中に土台をつくるという発想がなく、なんでも簡単に出来ると勘違いし、すぐに結果を求める。すると現実で自分が上手く出来ないことが理解できず、すぐに結果が出ないことに我慢できない。なので、上司から怒られたり注意されると、言いがかりをつける悪者に見える。厳しい人が現れたときは、出来ないことを反復して実力をつけることを促されているのに、この思考回路が邪魔をして、同じことを繰り返す努力が出来ない。そして、出来ないことを求める人物を悪者にする理由を探し、自分を正当化する言い訳が始まるのだ。散々頭の中で悪者にするので思考は現実化し、いつか本当に悪者になって、自分が苦しむことになる。上手くいっている人が狡く見えるとしたら、自分が自分のことを努力が出来ないのに成功しようとする狡い奴だとわかっているからだ。人は自分の中にあるものでしか外側を認識できないのだ。

 

 イメージするのは賽の河原に積まれた石だ。一個一個上に積み上げる石は、すぐに崩れてしまう。早く、高く積み上げようと思うから横に並べるという発想が出来ない。積んでは崩す無駄な努力を繰り返し、その度に怨みも積み上がっていく。

 社会で積み上げるとは、ピラミッドのように石をまず横に並べ土台をつくるのだ。それは、現実の求めに応じて同じ行動を何度も積み重ね、能力にするのだ。しっかりした土台が出来ると自然と一つ上の段に上がり、また次の基礎造りが始まる。そうやって一歩一歩確実に実力と成果を得ていくのだ。こんなこともフラクタル心理学を勉強しなかったら、きっと一生知らないままだっただろう。

 

 

 そもそも感情の思考パターンは、子どものとき同じ行動を積み重ねることが嫌で、その努力から逃げる自分を正当化する為につくった回路なのだ。父や母や姉達はいつも現実の世界で役立つ色んな知恵を教えてくれていたのに、子どもの私は空想の世界でいつでもヒーローになれる自分のほうが偉いと勘違いしたのだ。だから、指示される立場が不満で、蛇のように穴にこもってヒーローになった自分を空想し、穴から見える範囲で両親や姉達を批判し、裁判官のように断罪していたのだ。人への批判は自分への批判であり、人へ下した断罪は自分に下した断罪なのだとも知らずに。

 

 

 

(次回に続く)

 

 

 

白滝山の中腹に建つ高龗神社からの眺め

 

 

 

 

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