2018年10月

蛇神はたくらみ龍神は斬る (6)龍の目Ⅰ

カテゴリー/ その他 |投稿者/ カウンセリングルーム「桜」
2018年10月29日

 

龍の目(Ⅰ)

 私が中学生の頃、印象深い思い出がある。父の人生にとっては、その後の生涯に大きな影響を与えた出会いだ。それは晩年父が本を書くきっかけともなった。

その最初の出会いは、父が書いた本「葦原 中つ国の物語」の中に詳しいが、中学生だった私は、食事時の父の話が印象に残っただけだ。

 それは「今日東京から変わった人達が訪ねてきた。一人は60~70歳位の横浜大学の教授だという男性と、60代の女性霊能者だ。あと皇(スメラギ)という苗字の学生がひとりついてきていた。なんでもその霊能者が何度も神がかりしてこの場所にいくように言われたから来た」というのだ。父は日頃から霊能者という類の人間と付き合うことはなかったし、むしろそういうものを信じるなとよく言っていた。大学教授と霊能者の組み合わせも興味深かったが、所詮その時は自分には関係ない出来事でしかなかった。

 それが変わったのは、その後弟子だという大学生を6,7人連れて、霊能者の女性(父はI先生と呼んでいた)が滝修行に来られたのだ。明治や早稲田というそうそうたる都会の有名大学の男子学生が突然大挙して目の前にあらわれたのである。四方を囲まれた山の中の女姉妹の中で育った私には、動物園でライオンを見る位の驚きと、もの珍しさがあった。地元の集会所に泊まり込み、昼間は修行の合間に我が家に来て、I先生の凄さについて口々に話してくれたものだ。

 「夢で平安時代の言葉をしゃべる。」とか「未来のことをその場にいるようにしゃべったことが、その言葉通りに現実になる」「釣りに行って憑りつかれた土座衛門を払ってもらった」など、聞いているだけで面白かった。

 その後何回滝修行に来られたかよく覚えていないが、その学生の中の一人が長女に結婚を申し込んだのだ。それは父の反対もあり、上手くいかなかった。その話が壊れて後、姉は習っていた大きな和裁学校の先生に跡取り息子の嫁にと請われ、結婚して家を出た。父は、長女を嫁に出すことへの葛藤はあっただろうが、山の中の過疎集落にいるよりも姉に相応しい将来が得られると思ったのかもしれない。出すことに決めた。

 だが、残された姉妹の胸中は複雑だった。長女は跡取りとして特別な存在だった。美しく毅然として、学校の教師からも特別に可愛がられる存在だった。誰も、姉の抜けた穴を埋められないと感じていたし、それまで家を継ぐことなど考えたこともなかった。父の一存で結婚が決まることへの反発も感じていた。私は、これで長女が幸せにならなかったらどうするのだ?と父への反発を益々深めていた。

 そして、予感が的中するように結婚して3年後、姉は病気で突然亡くなった。気分が悪いと寝込んで一週間後だった。将来に夢を持てない18歳の私は、当時高校から父の進めるままに銀行に就職していた。クラスで進学せず就職したのは私だけだった。そんな私の為に、長女は銀行で預金を集めるノルマによく付き合ってくれた。姉に呼ばれて預金契約に行くたびに、私の銀行での話を聞いてはコロコロ笑って面白がってくれたものだ。私と姉との付き合いはいつもこんな感じだった。長女にとって一番年下の私は息抜きの出来る存在だったのだろう。

 その姉の突然の死が私達家族に与えたショックと悲しみは、言葉に出来ないくらい大きかった。その悲しみを癒すには長い時間が必要だった。

 

 

 

 その姉の死から随分後に、父がぼそりと言った言葉に驚いた。

「I先生(霊能者)の言った通りになったな。」

例の学生が父と一緒に姉との結婚のことをI先生に相談したとき、目の前で言われた言葉は

「彼女はやめておきなさい。子宮を患って若死にするよ」だったという。

 父親の前でいくらそう思っているにしても非常識だと思うが、実際姉は26歳で子宮から脳に転移したがんで亡くなった。父はどういう気持ちでその言葉を聞いたのだろう。初対面で滝に案内したとき、なんの躊躇もなく男3人の目の前でポンポン服を脱ぎ捨て、真裸になって滝に入ったという、常識では測れないI先生の言動なのだから、取り合わなかっただろうか。それとも、その逆だろうか。

 とにかく、姉はI先生の言葉通りに早死にし、父は最初の彼らの訪問を機に古事記や地域の歴史を猛勉強するようになっていた。それは彼らに請われて車で備後の神社を案内する折に、車中で聞いた様々な話がきっかけだった。母は、それ以来早起きして古事記を貪るように読むようになったと父の変化を話していた。

 それまでの父は神社よりも農業の方がはるかにやる気だったと思う。むしろ神職には乗る気ではなかったのだ。だからやりたくもない仕事をやらざるを得ないことに苛立ち、母との喧嘩が増えたのだ。だが、あの出会い以降、父は神職の仕事を天職さながらに務めるようになり、地域の歴史に精通し、本まで書き、その歴史を地元に広めようと死ぬまで神主としての責任を果たしたのだった。

 姉の結婚より後I先生のことを父から聞いたのはあの時だけだったと思う。横浜大学の教授と父とは、しばらく手紙のやり取りがあったようだ。「神縁を結びたい」と高龗神社の神前に実印を置いて行かれ、今も本殿の御扉の中に残っている。

 その方が、村山節という「文明周期説」を唱えられ、沢山の本も書き残された有名な方だったことは、父が亡くなる3年前、父の本のあとがきを考えている頃に知り、本当に驚いたものだ。偶然にもその方の本を読んだばかりだったのだ。百幾つまで長生きされ、数年前に亡くなられていることもその時知った。

 神縁とはそういうことなのか、と何とも言えない不思議な因縁を感じたものだった。その方の唱える説は、私がフラクタル構造というエッセンスに触れる最初の機会でもあった。(続く)

 

 

I先生と村山節先生との出会いから始まる

父が書き残した本

(扉や中のイラスト、あとがきは私がかいた)

 

 

邪神はたくらみ龍神は斬る (5)蛇の目 Ⅱ

カテゴリー/ その他 |投稿者/ カウンセリングルーム「桜」
2018年10月04日

 

蛇の目 (Ⅱ)

 

 私の父は、神職を継ぐのが嫌で19歳で神職養成学校を中退し、志願して戦争に行っている。満州の飛行部隊に配属され、終戦後は3年間のシベリア抑留生活を経て復員した。その間、どれほど祖父母は心配したことだろう。父が無事に帰ることを祈って祖母が通ったお百度石が、今も神社の参道に立っている。

 父は、7人姉弟の真ん中の長男で、下に病弱な弟が一人いただけで、女姉妹に囲まれて育っている。その病弱だったという叔父様も神職の資格は持っていたと聞くが、私が生まれた頃には所帯を持ち、会社員として働かれていた。

 父は、両親から待望の跡取りとして大事にされ、甘やかされ放題で育ったとは、伯母様方からよく聞いた話だ。もっぱら父に厳しかったのは次女三女の伯母様方だったようだ。お正月やお盆、お彼岸にそろって墓参りに来られると、小さい頃の父との待遇の差や、傲慢ぶりを聞かされたものだ。まるで自分の一挙手一投足を非難されているようで、いつも緊張していたのを覚えている。

 一番下の叔母様は、一人だけ独身で、他の姉妹よりも実家である我が家に滞在される日数が多かった。兄を慕って兄妹仲がよく、綺麗で優しく、私達姉妹の憧れの存在だった。いつも勤め先のある岡山から帰省されるのを楽しみにしていたものだ。

 この叔母様には良い刺激をたくさん与えて貰ったと思う。「子どものときから大人が読む本を読みなさい。」と文学全集を買ってくださったのも叔母様だ。岡山で看護婦をされていたが、後に川崎医科大学附属病院の総婦長にまで上りつめられた。その後仕事を続けながら結婚もされたが、現職中に惜しまれながら病気で亡くなられている。

 

 子どもの頃の私から見ると、山での生活を知り尽くしている父は、スーパーマンのような存在だった。嫁ぐまで神職のことも農業も知らなかった母は、何でも父に聞いて動いていた。祖父は決して力仕事や畑仕事はしなかった。

 小さい頃の記憶はおぼろげだが、甘えんぼうで泣き虫の私は、泣きやむまでよく納屋に閉じ込められたものだ。そんな時の父は怖い存在だった。姉達を見て、父からどうすれば怒られないかを学んだと思う。いつも一つ上の姉と一緒に、父とお風呂に入っていた記憶がある。五右衛門風呂なので、冷めると誰かが薪を焚いて湯加減を調節していた。父は湯船の中でタオルを膨らまして遊んでくれたものだ。「欲張ると逃げるが、与えようとすると入ってくる。」とお湯を手でかいて見せてくれたのを覚えている。姉妹で何か取り合いの喧嘩をしているのを見て、たしなめてくれたのかもしれない。

 

 父は、祖父が病気で亡くなる前(私が幼稚園の頃)から神職の仕事が増え始めると、一時期母との言い争いが増えた。農業は自然相手だが、神職は人を相手にしなければならない。父がいる食卓は、父が外での出来事を話すのを黙って聞く時間だった。一度父が母との会話に激高し、母を叩いたことがあった。姉達は母に味方し、父に非難の眼差しを向けるようになり、まだよく事情がわからない私は、父が一人ぼっちに思えて可愛そうでしかたがなかった。

 神職も農業も、時間が不規則で日曜も祭日もない。父が家にいる時間が減り、農業の母に掛かる負担は増える一方だった。家族はギスギスし、姉同士もいつもライバルとして競い合っているように見えていた幼い私には、頑張ることや競い合うことが争いの原因に思えた。だから、バカ話をして姉達の笑いを取るのが自分の役目だと思っていた。頑張り過ぎると祖父のようにいつか病気になる、だから自分が家族の中でピエロの役を引き受けるのだと思っていたのだ。

 

 6歳までの子どもは感情の生き物だ。理屈を考える脳は6歳以降に発達を始める。なので、子ども時代にこう思っていたという記憶は当てにならない。理屈の脳は、物事の良し悪しを決めた感情の流れの上にのっかっている。善悪は幼児の自分がすでに決めているのだ。印象に残った感情の記憶の断片に、後から自分に都合のよい理屈を当てはめているだけなのだ。要するに私は頑張ることや競い合うことが嫌で、家族の中で一番楽な道を選んだだけなのだ。

 実際は、仕事をすれば疲れると思ったのは子どもの私の方だ。それを勝手に父母もきっとそうに違いないと思うから都合のよい理屈をつけたのだ。父も母も、今から思うと仕事が大好きだった。母が嫌そうに畑仕事をするのを見た記憶がない。むしろいつも活き活きと楽しそうだった。神職の仕事も一年中忙しいわけではない。神事から帰ると父は休む時間も惜しんで畑に出ていた。実際、梨栽培は軌道に乗り、忙しい時期は近所の主婦を3,4人雇っていたし、途中から桃の栽培も始め軌道に乗せた。子どもの頃の記憶は本当に自分に都合よく塗り替えられているのだ。

 

 私は自然相手が好きで、人付き合いが苦手だった。そんな自分を父に投影して見ていた。上手くいかないと人にあたり、そのせいで一人ぼっちになる性質は私の中にあった。そして、なにより傲慢だった。すぐに人を見下すので上手く人間関係が築けない。上に反発し、素直に従えない。なので一人ぼっちになる。父にそんな自分を重ねて、可愛そうだと思っていたのだ。

 本当のところは、忙しい両親に仕事の方ばかり向かず、もっと自分をかまって欲しかったのだ。自分よりも仕事が大事に見える両親に腹を立てていた。だから、一番楽な道を選び、忙しい両親を手伝わずに空想に逃げる自分を正当化したのだ。だが、いくら都合のよい理屈を考えついたとしても、自分を誤魔化して楽な道を選ぶことへの罪悪感は消えない。空想は、やるべきことからの現実逃避に過ぎないからだ。

 

 

 大きくなる毎に私は父から愛されている自信がなくなっていく。「どうせ私は愛されていない。」自分の自己評価の低さはお父さんに愛されなかったからだ。それは「今度こそ男の子だと期待されていたのにまた女の子だった」と聞かされたときのトラウマだと自分では思っていた。実際父は、綺麗で聡明だった長女や、体格がよく運動神経がよかった三女を自慢していた。絵を描いたり、本を読むのが好きだった私は、父に褒めてもらった記憶があまりない。

 

 だが実際は、父を愛せなかったのは自分の方だったのだ。

 よく親からしっかり愛され、認めてもらっていれば自己評価が上がったのにと考えがちだが、これは間違いだ。自分が自分を認められない限り自己評価は決して上がらない。これを知らないと人のせいにして努力することから逃げる蛇の思考ルートを手放せない。仕事を、人の顔色ばかり見てやるようになり、褒められないと失望し、すぐにやる気を無くす。そして自分が努力出来ないことを、褒めても認めてもくれない誰かのせいにするのだ。実際は行動力や努力が足りないから実力が身につかず、自分に自信がもてないのを親のせいにしているだけなのだ。その誤魔化しに気がついているから自分を愛せない。自分を愛せないから、誰からも愛されている自信が持てないのだ。

 私と同じように絵を描いたり、読書好きだった2番目の姉は、高校生のときにはマーガレットという漫画雑誌で漫画家デビューをはたしている。東京の雑誌編集者からよく電話がかかってきたものだが、高校卒業と同時にあっさりと漫画を捨て、叔母様のような看護婦になると決めて岡山の看護学校に旅立った。行動的な姉だった。この姉のことを、母が「今そこにいたのに、振り向いたらもういない。思いついたら誰にも相談せず、すぐに行動に移す子どもだった。」というのを聞いたことがある。私の記憶でも、後ろを追いかけてもあっという間に見失っていた印象がある。空想に浸り、行動しない私とは大違いで、動くことがまったく苦にならないタイプの姉だった。

 一方で、私は小学3年生くらいまで授業そっちのけで空想ばかりしていた。当然成績も振るわなかったが、父母から「畑仕事を手伝え」とは言われても「勉強しろ」とは一度も言われないことをいいことに、別にそれが問題だとも思わなかった。

 そんな自分の目を覚ましてくれたのは学年一成績の良い同級生だった。友達になったのはお互い本好きがきっかけだったと思う。よく一緒に行動するようになると勉強も一緒にするようになった。すると、ことある毎に「こんな問題もわからんの!?」と彼女にバカにされるのだ。おそらくバカにするというよりも本当に驚いていたのだろう。だが、もともとプライドだけは高い私は、バカにされたと感じたのだった。それ以来、突然目が覚めたかのように勉強するようになった。彼女のお蔭で私の中の負けん気が目覚めたのだ。それまでは、周りからどう見られているかに関心がなかったし、どうせ誰も私に期待していないと感じていたのだ。

 友人と一緒に行動するようになると、彼女の高いプライドや人を小ばかにする性格が、嫌でたまらなくなった。それは父にも共通していた。わたしは中学になった頃には父が大嫌いだった。協調性がなく、頑固で人の意見を聞かず、自分が一番偉いと思っている。自慢ばかりして、周りの人のことはけなす。父や友人が嫌いだと感じると同時に、同じ性質を持っている自分のことも大嫌いだった。ひとりでボーと空想している間はそんな自分の性格に気づかずにすんだのだ。人と関わると必ず認めたくない自分の内面が鏡のように相手に映し出されるのを見ることになる。それを見たくないのも空想に走る一因だったのかもしれない。

 結局、人はどこまでいっても自分の脳の中にあるものでしか周りを認識出来ないのだ。大嫌いな人のことを話している時も、大好きな人の話をしている時も、実は自分自身のことを話しているにすぎない。

 

 彼女のお蔭で現実が見え始めた私は、高校受験で地元の進学校に進むことが出来た。だが、高校に入ったら勉強する意欲は途端になくなってしまう。もともと努力が嫌いで、飽きっぽい性格だ。父への反発心も大きかった。勉強よりも、クラブ活動や漫画研究会に入り、身体を動かしたり、ストーリーを練ったりする方が面白かった。なにより高校から先の目標がまったく見えてこなかった。

(蛇の目 龍の目(Ⅲ)に続く)

 

 

高龗神社の拝殿の屋根に現れた

龍にしか見えなかった松の枯枝

 

 

カウンセリングルーム「桜」
広島県福山市松永町4-32-7
TEL:090-4691-9173

Copyright © 2019 monkey-tamako,all Rights Reserved.

Top