2018年12月

蛇神はたくらみ龍神は斬る(14)蛇神のたくらみⅡ

カテゴリー/ その他 |投稿者/ カウンセリングルーム「桜」
2018年12月23日

蛇神のたくらみ(Ⅱ)

 

 これで私が高校を卒業する頃になっても、夢に向かって頑張る気持ちになれなかった理由がわかった。当時の私は、その気で頑張れば漫画家の夢をいくらでも追えたはずだった。だが、頑張る気力がなかった。それは自分を池の底に沈めたときに、自分だけでなく周囲まで破滅させかねない欲望も一緒に沈めてしまったからだ。つまり、早い段階で欲望を持つことを諦めたのだ。

 欲望は生きるエネルギーに等しい。欲望を抑えれば、生きる気力も抑えることになる。だからあんなに無気力だったのだ。夢を叶えられないなら、欲望なんか、はなから持たない方が楽だと早い段階で諦めたのだった。

 子どもの脳の持つ欲望は、人に依存し、人に満たしてもらおうとする。感情だけで生きているようなものなので、欲求を満たせないとなると感情が爆発する。子どもの感情の攻撃エネルギーは強大だ。「大嫌いだ!」「〇〇なんか死んじゃえ!」と短絡的に思う強い感情が現実化することを知っている龍の意識も、内側には存在する。だから、周囲を破滅させかねない怒りが爆発する前に欲望の方を封印するのだ。

 だが、欲望を封印しても怨みだけは残る。誰かに叶えてもらうのが当たり前になっている限り、どうせ欲望を持っても満たしてくれないのでしょ!と恨み続けるのだ。

 末子である私は、家族の誰からも可愛がられる位置に生れている。もちろんそれが欲しかったからその位置を自分で選んだのだ。下に姉妹を持たなかったので、自分で自分の欲望を満たすという発想が持てないくらいその恩恵に浸りきっていたのだろう。だが、「可愛がる」というのは相手を下に見るということなのだ。エッセンス的には思考の量が増えれば「バカにする」と同じ意味になる。ペットや赤ちゃんは可愛いが、思わず「なんて可愛いおバカさんなの。」と感じたことはないだろうか。

 「可愛い」を褒め言葉だと思ってはいけない。例えば男性から「可愛い」と言われて喜ぶ女性は多いが、これは男性から見れば女性を自分とは同列に並べようがないくらい下に見ているということなのだ。女性の方には、バカなふりをすれば可愛がって貰える、という下心が隠されている。なので、女性の方から相手を振ったりすると男性は猛烈に怒り、ストーカー化することすらある。それは、下に見ていた相手からバカにされたと感じるからだ。自分が可愛がる(下に見る=バカにしている)相手からバカにされると人は猛烈に怒る。つまり、男性から可愛がられたい女性ほど、人を下に見る傾向が強く、すぐに馬鹿にされたと怒るのだ。この世界はどこまでいってもフラクタル構造の鏡の世界なのだ。可愛いがる=可愛がられる、は表裏一体だ。それはバカにする=バカにされる、世界でもある。この世界から抜け出したいなら、自分の夢は自分で叶える(自立する)と決めることで「可愛い」から卒業し、子どものときに創った、見下す相手をつくることで自分の方が偉いと思う思考パターンを変える必要があるのだった。

 

 

 

蛇神はたくらみ龍神は斬る (13)蛇神のたくらみ

カテゴリー/ その他 |投稿者/ カウンセリングルーム「桜」
2018年12月16日

 

蛇神のたくらみ

 

 ここまで書いてきて、メッセージ性の強い夢を見た。それは自分が人柱となって池の底に沈められている夢だった。目が覚めてもずっと考え続けた。このイメージには覚えがあったのだ。以前誰かから聞いた話に、備後の服部の大池には、昔、若い娘が人柱として埋められたという。夢の中では、その埋められた娘が自分なのだった。そして、その上に大きな柱が杭として立っていた。

 人は自分に関係ないことをイメージ出来ない。ということは、私の中に人柱にされたような被害者の感情があるということになる。思考が現実化するこの世に、偶然はないのだ。

 そういえばその話を聞いたばかりのときも同じような夢を見たことを思い出した。とんでもない被害者意識が今も自分の中にあるということのようだ。自分が誰かに踏みつけにされ、今も日の当たらない場所で身動きできない状態にあるということを意味しているのだから。この思考を修正しなければ、地表(表舞台)に出ていくことは出来ない。

 

 私は夢とうつつの間で、必ず蛇を穴から引きずり出してやると決め、考え始めた。

 私を踏みつけにしている柱はどう考えても父だった。私はどうやら小さい頃、父に踏みつけにされたと感じる出来事があったようだ。具体的には思い出せないが欲望を止められた記憶が蘇る。ものを買ってもらえなかったとか、塾に行かせてもらえなかった、そんな誰にでも一つや二つはあるような思い出だった。

 フラクタル心理学は、100パーセント思考は現実化するという一元論だ。つまり、親も先祖も自分の思考が創り出したと考える。こう聞くと荒唐無稽に思えるかもしれないが、思考のエッセンスがフラクタル構造で現実化していることが見えてくると、実際その通りだと次第に納得がいくようになっていくのだ。

 私が郷里の古い歴史について書いた部分を思い出してほしい。金山銀山で栄えていたが、室町時代に落盤事故で鉱夫が何十人も埋まったままだと書いた。実はこれも私の思考なのだ。つまり私は、贅沢が好きで、一攫千金を夢見るような、刹那的な欲望の持ち主の自分を(自分の思考を)地中深くに埋めているのだった。

 エッセンスの相似形(フラクタル)は他にも見て取れる。実は、病気で亡くなった実家の祖父の父親は賭け事にハマり、借金を抱えたまま、祖父がまだ3歳の頃に北海道に追放されている。家の前も裏の畑も向かいの山も、すべて借金のカタにとられていたのを苦労して取り戻したのだとは、祖母に聞いた話だった。これは、登場人物や時代背景が違っていても、実は自分の脳の中にあるパターンを拡大投影して見ているのだ。

 つまり、私は人一倍欲望が強く贅沢で遊び好きな自分を、父親を杭にして地中深くに埋めているのだった。その杭がなければ、夢ばかりみて働こうとせず欲望のままに散財し、借金を重ねるような意志の弱い人間が表に出てくると知っているのだ。地中に埋めたのは自分自身なのだが、父に踏みつけにされたせいだと思っている限り、そんな自分を認めなくて済むのだった。「父のせいで」という被害者意識があるから渋々働いているが、父がいなければ働こうとさえしなかっただろう。

 自分の中にあるパターンは、やたらと気になるニュースを見ると分かりやすい。2年前オリンピック目前で、賭博が原因で無期限謹慎になったバトミントン選手のニュースを見たとき、自分の感情が大きく動いた。このとき「LDP」をやって、自分の中にこのパターンがあることに気がついていた。その後何度も思考修正を重ねてきたが、最近その選手は、以前の弱点を克服して見事な復活を果たし、世界ランク1位に返り咲いて素晴らしい活躍をしている。謹慎期間にたゆまぬ努力を重ねて、自分自身の弱さに見事に打ち勝っている彼の姿を自分のことのように喜ぶ自分がいるのは、もちろんそこに未来の自分を重ねて見ているからだ。人は自分の脳を通してしか外側を認識できない。他人事といえどもそこに感情が動くとき、自分自身のことを見ている。

 子どもの脳(感情脳)はもともと遊び好きだ。消費することしか考えられない。自分が稼ぐことはⅠミリも考えず、お金は親からもらうのが当たり前になっている。だから、稼ぐ人の気持ちが理解できず、使うことだけを考えるのだ。つまり、賭博にはまるような人の思考は、お金のありがたみ=親の愛がわかっていない人だと言える。そういう人は、お金は汚いものだ、とか、お金持ちには碌な人間がいないと思っている。平気でお金をどぶに捨てるような行為(いらないものを買う、賭け事、騙されて損をする)をし、消費するばかりでお金を活かすことができない。

 お金には親の愛が詰まっている。親は楽しい、とか、面白い、というような自分の子ども心を満たす為に仕事をしているわけではない。そもそも子ども心では仕事にならない。子どもを育てる為にはお金がかかり続ける。やれ大嫌いだ、疲れた、面白くない、そんな感情(子ども心)を使ってばかりいては仕事を続けられないのだ。だから、感情(子ども心)を殺して仕事に励む。子どもは、そんな日頃感情を押し殺して頑張る父親を、笑ってくれなかった、褒めてくれなかった、と感情脳で恨んでいたりする。これは、日本人が日本語しか理解できないように、子ども脳(感情脳)は感情表現しか理解できないからだ。父親が日夜感情を押し殺して働くのは家族の為なのだが、理性脳が育っていない子どもは、理屈を言う父親を感情が薄い=冷たい人だと判断し、母親のように身近で絶えず世話をしたり、声を掛けてくれたり、笑ってくれない父には自分への愛がないと思ってしまうのだ。だから、平気でお父さんなんか邪魔だ!と考えたりする。そのせいで父親の愛(=お金の価値)がわからない人間になってしまうのだ。

 私は父親の愛が分かっていなかった。自分がいつも消費する方を選ぼうとするから、その自分を養う為には猛烈に働く人を周りにつくる必要があったのだ。だから自分の人生に、いつも休日も返上して働き続ける人を見続けていたのだった。そして、表層意識では「そんなに働くから病気になるのだ。」と意味付け、自分は遊ぶ方を選んで家族が病気にならないようにバランスをとっている気でいたのだから、子ども心には恐れ入る。だから、いざ自分が働こうとすると、昼夜も休日もなく働かされると思うから(自分がそうやって周囲を働かせていたから)仕事に没頭するのが怖くなるのだ。それだけではなく、どんなに頑張ったとしても、自分の働きを認めることができないのだった。

 

 

 

 何度も言うが、感情脳は子どもの脳なのだ。なので、大人になっても感情を使う人ほど人生は山あり谷ありのジェットコースター人生になっていく。最初のうちはそのスリルを楽しむ余裕があるが、感情を満たすことだけに夢中になるうちに、手に負えない出来事を創り出す。子どもやペットを天使のように無垢で可愛いと思っているなら、感情脳の修正すら出来ないだろう。正義はそちらにあると信じ込んでいるからだ。だが実際は違う。残酷なのは子どもであり、無垢のほうなのだ。無垢が良いものだと思っていると、無垢であり続けようとする。それは敢えて無知であり続けようとすることなのだ。親をどんなに働かせても、傷つけても、親なら我慢して自分を養うのが当り前だと思っている。それは自分がそっち(養う)側に回ったことがないから、その痛みがわからないのだ。そして、出来れば永遠に回りたくないと考えている。だから大人になっても無垢な子どものままでい続けようとするのだ。だが、それは成長しようとしないことに等しい。

 子どもは楽しいことが好きだ。一度面白いと熱中すると自分しか見えなくなる。相手の嫌がる姿を見て楽しむ残酷さも、視野の狭さからだ。ちょっとからかっただけのつもりがエスカレートしていじめにまで発展し、ちょっとスリルを楽しんだだけがストーカーになっていく。だが、本人はさほど酷いことをしたとは思っていない。それは子ども心の延長上だからだ。子どものときは当たり前にやっていたが逮捕されたりしなかった。もっと刺激的な感情を味わう為に行動がエスカレートしていくのが子ども脳(感情)の特徴なのだ。なので、無垢な子どものままで生きることは自分の首を絞めることになる。そのうち知らないでは済まされない事態を創り出すからだ。

 

 もしも、あなたに大嫌いな人がいて、そいつのせいで○○出来ない!といつも腹を立てているとしたら、

あなたは、深層意識を正しく翻訳できていない。

 

 本当は、あなたはその嫌な奴の、まさにその嫌な部分が大好きなのだ。だから、人生で何度も同じような嫌な人物を身の回りに創り出す。むしろ、その人物がいないと困るのだ。その嫌な人物がいるおかげで、自分の人生に集中して本当にやるべきことから、納得出来る理由をつけて逃げられるのだから。本音はまったく別のところにある。バカに出来る(傲慢でいられる)。会社を辞める理由が出来る。(怠慢でいられる)人のことで悩んでいると頑張っている気がする。(自分自身を誤魔化せる)等々

 あなたが本当に嫌っているのはその人物ではなく、悪者を創り出すことで今やるべきことから逃げる卑怯な子ども心(感情脳)なのだ。もし、嫌な奴を創り出さなければ、その攻撃の矛先は自分に向かい、真実に対峙しざるを得なくなる。だから、必死に子ども心(感情脳)は自分自身を誤魔化し続けるのだ。

闇龗の一の降りで修行する修験道の僧侶

 

 

 

 

蛇神はたくらみ龍神は斬る (12)龍の教え

カテゴリー/ その他 |投稿者/ カウンセリングルーム「桜」
2018年12月07日

 

 

龍の教え

 神職の家に生まれて、なぜ他の宗教に入る必要があるのだろうかと思われるかも知れない。実は神道には教義が存在しない。古くは山や岩などをご神体とする自然崇拝から始まっているからかもしれない。「大和は言挙げしない国」と言われるように、もともと理屈を好まない国民性もあると思う。教義はなくとも、日本人の祭りや清浄を好む意識、伝統や家庭のあり方、生活、神話(古事記など)の中に、神道の持つ教義的なものが息づいている。明治の文明開化で海外の価値観がどっと入ってきたために、それまでの生活習慣が急激に変わり、日本人の精神性を維持することが危ぶまれた結果、大本教から始まる新興宗教が次々と世に出てきたのではないだろうか。そう思えるくらい宗教「生長の家」の教えは自分の肌になじんだ。

 生長の家では「人は神の子」というが、神道では生まれると百日祝い(ももかのいわい)として氏神様にご報告にいく。その後も七五三、成人式、厄払い、還暦と、亡くなるまで氏神様との付き合いは続く。亡くなると名前に命(みこと)の文字を入れて神として祀る。まさに人は氏神様の子なのだ。毎朝神棚に御神撰を供えて手を合わせるのは、我が家では子どもの役目だった。そのご神前には中央に御神鏡が置かれ、神前を拝む行為は鏡に映った自分を拝むことでもあった。「かがみ」の中の「が」を取れば「かみ」となるように、人が神に見えないのは我があるからだとは、父に聞いた記憶がある。誰が見ていなくてもお天道様が見ているともよく言っていた。

「人は神の子」というフレーズには、今さら当たり前のようで、やっと故郷に戻ってきたような懐かしささえ感じて、心底納得できるのだった。それまで、自分の性格を散々嫌っていたが、生長の家の教えから、自分の実相は神なのに自分にはそう思えないのは、曇った眼鏡(我の眼鏡)をかけて自分を見ているからで、いくらメガネが曇っていようがその奥には完全な神の実相がある、と思うことが救いになった。日々、曇りを取るために神想観という座禅をして、神のエネルギーが自分の中に流れ入り、満たされていくのをイメージするのだった。そして、人と向き合うときは「有り難うございます」と手を合わせて、相手の神性を拝むのだ。

 最初のうちは「親に感謝出来ない者はこの世で幸せになれない」という言葉には抵抗があった。感謝行に参加して、親への感謝の言葉を一日中繰り返し唱えると、「なんで私が親に感謝しなくてはならないのだ!?こんな想いをするのは親(父)のせいなのに!!」と歯ぎしりするほど悔しさがこみ上げてきたものだった。だが、私はどうしてもこの世で幸せになりたかった。

 

 

 銀行勤めを続けながら、生長の家の様々なセミナーに参加し、本を配り、神想観をする生活を4~5年続けるうちに、向かい合う相手が神に見えないとしたら、自分の方に問題があるのだと自然と考えられるようになった。相手を一方的に責めるのではなく、自分を変えようと努力するようになったのだ。自分の我(眼鏡の曇り)を取り去ることが出来れば、相手は神の様に見えるはずだった。だが、自分のどこをどう変えればいいのかを自分では自覚しづらく、相手を否定したい感情は動き続ける。なので、否定的な感情が強く動くときほど絶対に逃げないと決め、相手を鏡にして、良い人だと思えるまで自分の内面を変える努力をやり続けるしかなかった。

 このやり方は、生長の家から離れて、30年後にフラクタル心理学に出会うまで続けていた。3年、5年、ときには十年以上も時間をかけて、確実に相手が変わるようになっていった。一度その実感を持つと、その度に「やっぱり人は神なのだ。相手に問題がある訳ではない。自分の迷い(我)を相手に映して見ているだけで、自分の迷いを取れば相手も良い人に変わる!」という思いは強くなる一方だった。そして、誰の中にも神性があるという実感も深まるのだった。

 

 

 ところで、フラクタル心理学では、問題となる部分をピンセットで摘まみ上げ、ここをこう変えれば相手だけでなく現実もこう変わるとわかる「LDP」という方法がある。それは、的確な部分さえ摘まみ上げれば、あっという間に、ときには一瞬で変わることすらある。そういうときは、大嫌!怖い!というような強い感情も、狐が落ちたように一瞬で消えてしまうのだ。それは霊能力のような不思議な力によってではない。数式のように矛盾のない、現象学を元にした心理学理論によって可能なのだった。更に、将来の方向性まで的確に見通せるのだから、この心理学に出会ったときの私にとっては、まるで一家に一台あった電話機がいきなり最新機能付きの携帯電話にバージョンアップしたようなものだった。この理論を一から創り上げられた一色先生にお会いしたとき、「スサノオノミコトの草薙の剣を手に入れたような気分です!」と興奮して話したことを覚えている。本当にそれが実感だった。だが実際、多機能の携帯電話を手に入れたとしても、使いこなすまでには訓練が必要なのだった。(続く)

 

高龗神社のご神体である三つの瀧(闇龗)の一つ 二の降り

各地にある高龗(たかおかみ)と闇龗(くらおかみ)は対の神様といわれ、必ず高龗は山の上の高い場所に、闇龗は日が差さないような低い暗い場所にある。心理とフラクタルに考えれば、高龗が表層意識で闇龗が深層意識という言い方も出来る。

 

 

 

 

 

蛇神はたくらみ龍神は斬る」(11)東の龍と西の虎Ⅲ

カテゴリー/ その他 |投稿者/ カウンセリングルーム「桜」
2018年12月02日

 

東の龍と西の虎Ⅲ

 もう一つ気がついたことがある。長女にとって私は、ライバルにはなり得ない、気が置けない存在として、いつも面白いことをいって笑い合える癒しの存在なのだと自分では自負していた。

 だが本当にそうだろうか?

 確かにそういう面もあった。子どものときから姉妹で集まってバカ話をして大笑いすることがあった。そういうとき、私は張り切って姉達を笑わすのだった。話がツボに入ると長女も涙を流して笑い転げたものだ。私は姉妹で持てるこういう時間が大好きだった。

 だが、それは長女の一面でしかなかった。最近子どもの頃の長女のことを母に尋ねたとき、「あの子は子どものときからしっかりした、きつい子だった。」と言っていた。確かに長女はとてもしっかりしていた。仕事の役割分担はいつも長女が決め、指揮をとって姉妹にやらせていた。私にとっては煙たい部分も多かったはずだ。私が高校生の頃には「この子は家から出さんといけんよ。」と盛んに両親に進言していたのを覚えている。それは、依存的でいつまでたっても自分の進路を自分で考えようといない私を心配しての言葉だったはずだ。だが、当時の、いつまでも両親の庇護のもとに依存し続けたいわたしには、それが愛のある言葉には聞こえなかったはずだ。私の中にも姉をきついと思う気持ちがあったはずなのに、自覚できないのはなぜだろうか?

 姉が嫁いだ先は大きな和裁学校だったが、嫁いでからも益々好調に業績を伸ばし、学校を建て替え、規模を大きくしていた。若くして夫を亡くしたお姑さんが一人で大きくされた学校で、育てられた4人のお子さまも外交官から京都の和服問屋や大学教授の奥様など、立派な方々ばかりだった。

 姉は厳しいお姑さんの指導を受け、大変そうだった。泣きながら実家で母と話している姿も見ていた私は、姉に呼ばれて預金集めに行くたびに面白い話をして、姉の笑う姿を見て、私なりに姉の役に立っているつもりでいた。だが、姉にとっては、むしろそんな大変な状態にあっても私のことが心配だったのだ。銀行のノルマをちょっとでも助けてやろうと絶えず気に掛けてくれていたのだった。そんな姉の視点が当時の私の中にはなく、姉の大きな愛に気づけなかった。

 父に勧められ、あまり気乗りではなかったが決めた結婚、厳しいお姑さんの指導、中々出来ない子ども、上手くいっていないらしい夫婦の仲。

 実際に姉の気持ちを聞いたわけでもないのに、自分で勝手に姉の気持ちを想像し、姉の人生を悲劇と決めつけて見ていなかったか?

 努力が好きで、自分の能力で人の役に立つことが何よりも生き甲斐だという人にとっては、姉の人生はやりがいがある毎日だと感じるかもしれない。だが、仕事嫌いで、努力が嫌い、空想の世界で遊ぶのが一番楽しいと感じている私には、当時の姉の人生から喜びを見出すことが出来なかったのだった。

 人は自分の脳を通してしか何も認識できない。姉の悲劇のような人生をつくったのは私の脳なのだ。それは自分の中にパターンとして存在する。もし自分が長女のような立場を選んだら、私は姉と同じように若死にするだろう。だから、絶対に頑張り過ぎない道を選ぶ。そのパターンをつくったのは子どもの自分だ。祖父の死に接して、「頑張り過ぎたら病気になって死んでしまう。」と意味付けたのだ。

 

 これも自分への呪いだった。脳には主語がないとフラクタル心理学ではいう。つまり、私が見ている現実では、だれであっても頑張り過ぎたら死んでしまうというパターンに当てはめられる。これは、元々は頑張らない自分への言い訳として意味付けたのだが、その後の人生を法律のように支配する。実際、そういう現実を姉以外にも度々見ることになるのだった。

 この呪いを解くには、仕事を好きになる必要があった。コツコツと努力することを好きになり、本物の能力をつけて、その能力で人の役に立つ喜びや達成感を知ることが、呪いを解く一番の近道なのだ。だが、そう聞いたとしても、仕事嫌いの人間には、それこそが一番遠い道のりに思えるだろう。感情の抵抗には敵わないことを散々身を持って知っているからだ。一度子どもの頃についてしまった思考パターンを変えることはそれくらい難しい。

 

 ずっと自由に夢ばかりみていたい、なんの責任も負いたくない。自分で努力しなくては夢を現実のものには出来ないとわかっていても、どうしてもやる気になれない甘えた自分自身を愛することが出来なくなっていた当時の私に、生長の家という宗教が救いの道を示してくれたのだった。(続く)

 

イチョウの御神木

 

 

 

 

 

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