2019年2月

邪神はたくらみ龍神は斬る (20)八方塞がり

カテゴリー/ その他 |投稿者/ カウンセリングルーム「桜」
2019年02月18日

八方塞がり

 

 出雲大社にある神職養成学校で正階という資格を取得して卒業した私は、早速父の持ち神社の一つに祢宜という役職で登録し、仕事を手伝い始めた。だが、田舎の神職の仕事は、秋祭りのシーズン以外は仕事量が少なく、すぐにアルバイトを転々とすることになった。ファイナンス会社の出向社員から洋服販売、洋服直し、会社事務員など様々な職種を経験しながら、その合間で神職の仕事を手伝うのだった。

 そのうち、自分はとんでもなく間違った選択をしたのではないかと後悔し始めた。神職の仕事は、子どもの頃漫画家になる未来を描いていた私には、あまりにも窮屈だった。それは毎回決められたことを繰り返すだけで、昔からのやり方を延々と未来へ繋いでいくことに価値があり、そこに新しいものを入れることなど許されなかった。仕事以外の場でも神職としての立ち振る舞いが厳しく求められているのが肌で感じられ、息苦しくて仕方がなかった。しかも、祭りの場に同僚と呼べる存在はおらず、孤独だった。祭りに関わる地域の総代さん方は、社会で立派に活躍されたのち定年を迎えられた、父と同じ年代か、もっと上の世代の方々が選ばれ、女性は一人もいなかった。そういう方々から「禰宜さん」と呼ばれ、知識も経験も乏しく、やり方もまだよくわからなくても一端の神職として扱われた私は、次第に神社に行くこと自体が苦痛になっていった。かといって今更漫画家を目指す勇気も、気力もないのだった。父の仕事を手伝えば手伝うほど、父がやってきたことの大変さが身に染みてわかるようになった反面、この仕事を続けていくのが嫌で仕方がなくなっていった。

 どんな仕事でもそうだが、立場というものがある。その立場を、覚悟を決めて全うすることこそ責任をとることなのだが、この責任をとることが、精神的に未熟な私には苦痛でしかたがなかったのだ。フラクタル心理学では、社会で責任をとることこそが収入につながるという。つまり、重い責任をとっている人ほど、沢山の収入を得られるというのだが、精神が子どもであればあるほど、責任をとるという意味がわからない。子どもは何の責任も取る必要がないからだ。だが親は、親になった瞬間から責任をとっている。子どもの将来を見据え、どう接するべきか、何を与えようかと、常に考えている。何か子どもにあればもちろん親の責任になる。そんなことは親にとっては当たり前なのだが、この、あたり前のこととして責任をとっていることが、心を鍛え、強くしていく。

 責任がとれない者ほど傷ついたと大声で主張するのが当然だと思っている。それは心がまだ弱いからだ。なんの責任も取っていない者ほど、心は弱いままだ。ちょっとのことでも心は豆腐のように震え、傷ついてしまうのだ。だが、責任をとる立場に立てば、心は強くなる。それはいちいち傷ついていられないからだ。傷ついたとしても誰も変わってくれなければ、同情もしてくれない。次から次へとやるべき仕事はやってくる。子育てにもそういう側面があるのだ。親になったら誰も変わってくれない。どんなに「もういやだ!」と泣き叫んでも、子どもは目の前から消えてくれない。そんな泣きたい気持ちは親になれば誰もが経験するだろう。子どもは、すぐにお腹が空いたと泣き、オムツが汚れたと泣く。熱があろうが、寝不足だろうが、親の事情はお構いなしなのだ。そして、親には子どもの為に、大きくなるまでお金を稼ぐことが当たり前に求められ続けるのだ。責任をとる立場の人は、挫けそうになる度に何度も何度も覚悟を決め直し、やるべきことに取り組み続ける。子どもへの愛情があればこそ、それをあたり前に受け入れる。それが親を強くするのだが、その強さが感情の生き物である子どもから見ると、ときには冷たく感じられ、自分を否定されているような、悪いものに見えてしまうのだ。 (さらに…)

 

 

蛇神はたくらみ龍神は斬る(19)神々の出雲 感情の解放Ⅳ

カテゴリー/ その他 |投稿者/ カウンセリングルーム「桜」
2019年02月07日

神々の出雲 感情の解放四

 

 それまでの私は父親に対する不信感と、身近に父以外の男性がいなかったことから、男性不信が強かった。だが、出雲での生活で自尊心を少しずつ取り戻せたことと、男子生徒と男女という垣根を超え、下級生にどう向き合うかというテーマで正面から何度もぶつかり合ったことで、同じ人間として本音で向き合うことが出来るようになっていった。その経験から、「私だったらこう思うからきっとあの人もそう思うだろう。私だったらきっと嫌だからあの人も嫌な気持ちになるに違いない」と、自分の気持ちを相手に重ねて、相手を思いやることが出来るようになってきた。これは男性が自分と同じ感情を持った人間だと分かるようになってきたということなのだ。

 ということは、それまでの私は、男性を自分と同じ人間だとすら思っていなかったということなのだ。愛がないとはまさにそういうことだ。自分とは全く違う男という生き物、それは女好きで、理性に乏しく、暴力的で理解しがたい生き物。そんな失礼気まわりない評価だった。

 これは、まだ人として経験不足で、未熟だということなのだ。例えば、子どもは親に自分を重ねて思いやれない。つまり親を自分と同じ人間だと思っていないということなのだ。自分とは違う親という生き物だから、平気で傷つけるようなことを言い、行動できるのだ。そして、まさか自分の言葉に親が深く傷つくこともあるとは露ほども感じていないくせに、自分は親から散々傷つけられたと感じている。まだ親を自分と同じ人間として思いやる心が育っていないのだ。人を育てるという立場にたち、親と同じような経験を積むことによって、やっと自分の気持ちを親に重ね思いやることができるようになってくる。

 フラクタル心理学では、親に愛が持てない(思いやれない)状態を、まだ愛がない人だという。この状態だと誰と付き合っても相手に愛を見ることが出来ない。常に愛に裏切られる気がするのだ。それは、自分が愛だと信じているものが愛ではないからだ。子どもの脳(感情脳)は、その場その場の感情を満たしてくれるのが愛だと思っているのだが、そんな我儘を許す親などいない。親になればよく分かるが、子どもは本来面倒くさがりで、自分のやりたいことだけやっていたい生き物だ。子どものその場その場の感情を一々満たしていたら、とんでもなく我儘な大人に育ってしまう。だから、どんなに泣き叫んでも子どものときに我慢することを覚えさせるのだが、我慢の効かない感情脳であればあるほどそれは虐待にも等しく感じられるはずだ。だが、本当はそれこそが愛なのだ。親が愛を持って曲がりなりにも社会に適応できるように厳しく躾けてくれたからこそ、社会で感情を押し殺して働くことが出来るようになるのだから。

 もし、感情を満たしてもらうことが愛だと信じ続けるなら、「愛が欲しい!愛が欲しい!」と何歳になっても愛を探し続けることになるだろう。感情を満たすとは我儘な子どもの心を優先するということだからだ。それは周りの人間にとっては、子どもの我儘に振り回されることに等しい。だから、そのうち愛想をつかされることになる。だが、そういう人にとって、周囲の人こそ嫌になるくらい我儘な子どものように見えているはずだ。人は自分の脳の中にあるものでしか外側を見ることが出来ないからだ。自分の中にまだ親(人)を思いやる愛がなければ、周囲に愛ある人がいてもそこに愛を見ることが出来ないのだ。自分が未熟なままなら、未熟な自分自身しか投影することは出来ない。「人は鏡」といわれる所以である。

 

 出雲に来た2年前は男子生徒といがみ合うことしか出来なかった私だったが、卒業する頃には、あんなに険悪だった下級生の男子学生から、卒業後に電話で相談を受けるくらい良好な関係になっていた。だが、私が相手を思いやれるのは、まだ自分と同じか、年下の男性に限られていた。家族の責任を一心に背負い、神職として社会的責任をとっている父は、自分のことだけで精一杯の当時の私とはエネルギー差が大き過ぎて、理解出来る存在ではなかった。

 

神道ではご神前の中央には鏡が置かれる。

昔から「人は鏡」というが

フラクタル心理学理論の一元の理解が深まれば深まるほど

その意味深さに愕然とすることになる。

 

 

 

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