2019年3月

蛇神はたくらみ龍神は斬る(23)復讐

カテゴリー/ その他 |投稿者/ カウンセリングルーム「桜」
2019年03月26日

 

 復讐

「古事記の舞台はここにある」

 晩年父が、神職ならだれもが祭りで使う「大祓」という祝詞について印象深いことを言っていたことを思い出した。それは、「大祓」の祝詞は、素戔嗚命は善い行いもたくさんされたのに、皆で悪者扱いして懲らしめる内容になっている、というものだ。この部分が父から見て感情が動く箇所なのだ。内容のどこに興味を持ち、どう意味付けるかで、その人の持っている思考パターンがわかる。

 古事記を読むと、天照大御神と素戔嗚尊は姉弟関係になる。天皇は男系と決まっているのに、何故皇祖神は女性なのだろうかと思ったことはないだろうか?

 フラクタル心理学では脳にはヒエラルキーがあるという。それは社会のヒエラルキーと相似形になっている。なので、ヒエラルキーを守らないと社会で活躍しようと思っても問題が起きて上手くいかない。

 古事記の冒頭、神代の記述の中では、何故かヒエラルキーが逆転しているように見える。姉の天照大御神が弟の素戔嗚命より上に位置して天を治め、素戔嗚命は地上を治めている。早くに亡くなった母を恋しがる素戔嗚が、姉に会いに天に昇って大暴れした為に、姉神は天の岩戸にお隠れになる。岩戸からでてこられたこころ優しい姉神の許しを得て心を入れ替えた弟神は、地上に戻ってその後は良い行いをしたことになっている。男兄弟の末子である大国主命も、嫉妬した兄たちに何度も殺されそうになるが、心やさしい性分のお蔭で周囲に助けられて難を逃れ、ついに兄を差し置いて国を素戔嗚命から引き継いで治めることになる。だが、その国も、後に天から降りてきた天照大御神の子ども(天皇につながる系譜)に引き渡しを要求され、最終的に手渡すことになる。

 

 

 神代の話を、姉兄弟のエッセンスに戻して考えると、完全にヒエラルキーが逆転しているのがわかる。

 私の父は長男だが、上に姉が3人おり、父の子どもの頃の乱暴ぶりをよく伯母様方から聞かされていた。私が小学生に上がる前、姉達と母が団結して、食事時になると父と争っていたようにも感じていた。それを見ながら、父が一人ぼっちに思えて、可哀想だと思っていたのだ。

 父は、自分の置かれた立場を素戔嗚命と重ねて見ていたのではないか。

 そう言いたいとしたら、それは私の思考なのだ。つまり、私が父を素戔嗚尊に重ねて見ていたのだ。

 私の頭の中のヒエラルキーが逆転していたので、横暴で自分勝手な父(子どもの自分にはそう見えた)を散々頭で批判して、父を一人ぼっちにするような現実を創ったのだ。そして、父を可哀想だと思うことで、それを望んで現実化した自分を誤魔化しているに過ぎない。優しいとか可哀想という気持ちは、深い部分にある真逆の感情を誤魔化し、自分を美化できる便利な言葉なのだ。文字通りに受け取ると未来で裏切られる。

 神職の資格まで取って家を継ぐといいながら、結局父の期待を裏切り、結婚して家を出て、最終的に父が持っていた神社をすべて人手に渡してしまうのだから、これは父への裏切り以外の何物でもないだろう。

 だから、生涯に渡って父に「古事記の舞台はここにある!」と狂ったように言わせ続けていたのかもしれない。ヒエラルキーの逆転した現実がここにある!と未来の自分が父に言わせ続けていたのではないか。

 

 生長の家で「親に感謝出来ない者はこの世で幸せになれない」と知り、自分ながらに一生懸命そのことにこだわり続けたつもりだったが、父が亡くなるまで、私はまだ心から父に感謝出来ていないと深い心でわかっていた。もしかしたら私は父に復讐したいのかもしれないと何度も感じたものだった。でも、そうならないようにしようと思っているのに、どうしても結果的にはそっちに行く現実しか選べないのだ。それが子どものときに創った感情の思考パターンのせいだとは勿論わかるはずがなかった。表層意識と深層意識がまったく別の脳で、自分の中に表層の自分とは別のことを考えている自分が何人もいるとは知らなかった。父を悪者にする目的は、父から母を独占し、自分の為だけに召使の様に母を使いたいという、視野の狭い身勝手で独占欲の塊のような子どもの自分がいることに気づけなかった。自分が本当に避けているのは責任をとることだとも気づくことが出来なかった。もちろん深層意識の思考パターンを変える方法も知らないから、いくら変えようとしても変わらないということすらわからなかった。

 だが、父が亡くなるまでには必ず見つける!そういうものに絶対に出会うはずだ!と固く信じていたのも事実だった。

 

 

蛇神はたくらみ龍神は斬る(22)もう一つの「葦原中つ国の物語」1

カテゴリー/ その他 |投稿者/ カウンセリングルーム「桜」
2019年03月18日

 

もう一つの「葦原の中つ国の物語」

 

 このグログを書く前から、私には一つ大きな疑問があった。それはフラクタル心理学を勉強するずっと前から不思議に感じていたことだった。思考は現実化する!100パーセント例外なく!ということを知っている今の自分なら答えを出せるはずだと自分なりに何度かこころみたが、スッキリとせず、その後も同じような現象が続いた。だが、このブログを書き始めるとすぐに気がついたのだった。この疑問の答えを得る為に私はこのブログを書いているのだと。何度も同じ言葉を繰り返し言っていた父は、実は未来の私だったのだと実感したのだった。

 

 出雲の神職養成学校から帰ってから暫くすると、父が盛んに古事記の話をするようになった。古事記の舞台「葦原の中つ国」はここ備後地方のことで、須佐之男命や大国主命が活躍されたのはこの地が舞台だというのだ。それは各地に残った地名や神社の祭神やその由来からもわかる、というものだった。それを聞く度に「なにを藪から棒に父はいいだしたのだ?そもそもあれは神話じゃないか。史実じゃないだろう?例え史実だとしても証明出来ないものを、いくらいっても仕方がないじゃないか。」と思ったものだった。

 父にしてみれば、私が中学のとき出合ったあの霊能者や大学教授から聞いた言葉がずっと頭に引っ掛かり、古事記を何度も読み直し、地元に残る古い文献や、地名や、いい伝えと照らし合わせて得られた結論だったのだが、そんなことは知らない私は、父が突然何かに憑かれたかのように突飛なことを言い出したと感じたものだった。しかもそれは、家族だけにとどまらず、祭りに出向く度に氏子の方々の前で何度も繰り返し言うようになった。果ては祭りの途中で延々と古事記の冒頭を諳んじるようになったので、父の後ろで正座して畏まっている私は、足が痺れてたまったものではなかった。「祭りが長すぎる!」とその都度父に文句を言ったものだ。

 

 結局父は、ついに本を自費出版し、亡くなる寸前まで続きを書いてまた本にすると言い続けた。そして、亡くなった後も別の人物から同じようなことを繰り返し聞かされることになるのだった。

 その人物とは、父が亡くなる2,3年前に偶然出会い、父の唱える説に賛同され親交が生まれたのだった。歴史に詳しい地質学の専門家で、校長から教育委員会まで務められた立派な経歴の持ち主だった。父が亡くなってからも父以上の情熱を持って、ここが古事記の舞台だと誰彼となく会えば話されるのだ。その方の説は、ついに有名なアニメ監督(私は知らなかったが、当時高校生の子どもに聞くと、同級生で知らないものはいない!と興奮していた。)に原作として取り上げられて、すでにアニメ化されている。その方には、会うたびに「ここが古事記の舞台」ということだけでなく、永遠の命、もうすぐ昼と夜がひっくり返る、古い時代の都は周辺の地形と地名が相似形になっている、など、今のフラクタル現象学にもつながるようなことを繰り返し聞いていたのだった。

 

 父が亡くなった後にも「それがどうしたというのだ?だからって現実に何の意味もないだろう?それが史実だと証明できないことを言ってみてもしょうがないじゃないか。」と思わされ続けたということは、つまり、それは自分の思考パターンだということなのだ。おそらく、子どもの頃の私は、自分に理解できないことは意味がないこととしてとり合わないことに決めていたのだろう。算数も物理も社会も、学ぶたびに「これが現実になんの役に立つのだ?意味がないだろう。」と感じていたに違いない。このパターンは、修正しない限りどんな学びも深まらず、未来に活かすことは出来ない。だが、修正すれば過去の学びを未来へ活かすことが出来るのだ。

 

 

 

改めて、父が主に繰り返し言っていた、私にとって特に印象深い言葉は

 

ここが古事記の舞台

もうすぐ天変地異が起こる

 

というものだった。

 古事記の舞台の記述と中国地方の地名が重なると父はよく繰り返し言っていたが、今の備後府中から福山にかけては「穴の海」と呼ばれる海だったという。穴の海は地元の古い文献の中に地図としても残っている。そこから父は、過去に大きな天変地異が起き、地形が大きく変わったのだろうと推測した。そして、その天変地異は近いうちに繰り返されるだろうと予言し、周囲に言い続けていたのだ。

 

 この「もうすぐ天変地異が起きる!」が自分の思考だとしたら、修正しない限り、天変地異を起こしたい自分の思考が存在するということになる。思考が貯まれば現実化するのだ。実際、最近は毎年のように地元にも災害が起き、その規模は年々大きくなってきていることに不安を感じていたのだった。

 

父の本にある「穴の海」の地図(古い時代の福山市から府中市にかけて)

 

 

蛇神はたくらみ龍神は斬る(21)場の神様

カテゴリー/ その他 |投稿者/ カウンセリングルーム「桜」
2019年03月03日

 

場の神様

 

 現実逃避は私の感情脳がつくった思考パターンだった。嫌なことがあるとすぐに空想に逃げていた子どものときの癖が、大人になってもそのまま嫌なことから逃げる思考パターンになり、いつも無意識の領域で動いていた。だがここに来て、生長の家の教えから、自分の心の目の曇りを払うことでしか嫌なことからは逃れられないとわかっていた私は、少しずつ現実に立ち向かう覚悟を決めるしかなかった。

 神職の学校に入ってから後は「生長の家」の組織からは遠のいていた私だったが、教祖が書かれた本「生命の実相」だけは苦しい時は何度も読み返していた。

 当時一番苦痛だったのは、自分が神職として扱われることだった。神職になるとそれに相応しい立ち振る舞いが求められる。感情脳が理性脳より優位にたっている私には、それは自分らしい生き方ではないと感じられるのだ。神職らしく振る舞うことは、感情の自分に嘘をつくことになる。それでは世間に嘘をつき、見栄を張っていることになると感じるのだ。それは子どもの私が父に下してきた評価でもあった。

「感情を殺した父(子どもの自分にはそう見えた)は自分に正直ではなく、嘘をついて見栄を張っている。嘘つきの父は神職には相応しくない。」と思ってきたから、自分が父と同じ立場になると人からそう思われると感じ、怖くなるのだ。

 

 これは感情脳優位な人の特徴ともいえる。感情的な自分が本当の自分だと思うので、理性的な大人の脳を優先している人が自分の感情に正直ではない嘘つきに見える。なので、なかなか理性脳の言うことを聞けず、いつも感情的な自分のほうを優先してしまうのだ。そのせいでいつまでたっても大人としての理性的な行動を選ぶことが出来ない。

 だがこれは、知識も経験も足りない自分が、努力や責任をとることから逃げようとする感情脳の誤魔化しに過ぎないのだ。実際、神職としての立場を長いあいだ経験してきた父は、神様の名前から神事に関してとてもよく勉強しており、氏子のどんな質問にも答え、信頼されていた。私が聞かれて答えられないことは、父に聞けばすぐに答えを得ることが出来た。

 要するに私は、まだ知識も経験も足りない自分への周囲からの評価を恐れているだけなのだ。こればかりは経験や勉強を重ねて自分に能力をつけるしか解決の道はないのだが、それをしたくない感情脳は、なんだかんだと逃げる為の屁理屈を考えるのだ。

 

 このときも生長の家の「人は神の子」という考え方はとても役立った。周囲の人が全て神なら、そう見えない自分に問題があるということだ。いくら人の顔色を伺っても意味がない。自分が置かれた場に意識を集中して動ければ、周囲とも調和出来るはず。そう考えた私は「場の神様の為に働く!」と決め、余計な感情を動かさずその場で求められていることに意識を集中して動くようにすると、しだいに自分がどう思われているかが気にならなくなり、神社の総代(世話役)の方々にも馴染んで神職の仕事が面白くなっていった。

 

 

巫女舞を秋の大祭で舞うようになり、人前で行動する度胸がついた。

 

 

カウンセリングルーム「桜」
広島県福山市松永町4-32-7
TEL:090-4691-9173

Copyright © 2019 monkey-tamako,all Rights Reserved.

Top